『ウルトラマン』の作者・金城哲夫
「ウルトラマン」という名前は聞いたことがあっても、TV放送は観たことがないという方も多いのではないでしょうか。
今日は、50年以上前に始まり、一世を風靡した「ウルトラマン」について話したいと思います。
「ウルトラマン」の作者、金城哲夫さんは1938年7月5日に生まれました。
東京で生まれましたが、中学までを沖縄で過ごします。
太平洋戦争当時、6歳だった金城哲夫少年は沖縄戦の南部激戦を奇跡的に生き延びますが、母親は機銃掃射を受けて左足を失い、幼い妹は栄養失調で亡くしています。
その後、哲夫少年は那覇高校の受験に失敗しますが、教育熱心な母親の後押しで15歳で単身上京。玉川学園高等部に入学します。
玉川学園といえば、お金持ちの子弟が集まる学校というイメージがあります。
哲夫少年は、才気煥発で特に目立つ存在だったといいます。

「俺は沖縄と本土の懸け橋になる!」
哲夫少年は常日頃そう言っていました。
1956(昭和31)年、高校2年生の哲夫は級友たちと共に沖縄を訪問します。
戦後のアメリカ支配下にあった沖縄では、当時として全く異例のことで、マスコミは連日大きく報道しました。
哲夫たち一行は地元の高校生らと座談会を繰り返します。
その中で、ある校長先生はこう話したといいます。
「沖縄は貧乏な親(日本)のもとから、金持ちの継母(アメリカ)のもとへやられた子供です。けれども、どんなに貧乏でも、沖縄は一日も早く実母(日本)のふところへ抱かれることを願っているのです。」
「また住民はそれだけを唯一の望みとして、毎日の生計をいとなんでいるのです。でも現在の沖縄の実情は、祖国復帰(日本復帰)を口にすることすらできないありさまです。少しでもアメリカを非難すると、アカのレッテルを貼られてしまうのです。」
また、ある高校生は、こう話しました。
「内地に復帰したいという気持ちは誰でも持っているが、それを外に出せないのが悲しい。それにもっと悲しいことは自分たちのなかにスパイがいることだ。」
太平洋戦争が終わって、まだ11年しか経っていない頃です。
その後、沖縄は祖国復帰(日本復帰)について「島ぐるみ闘争」に突入することになります。
【参考文献】小林よしのり『沖縄論』
『ウルトラマン』を大ヒットさせる!
1960(昭和35)年、玉川大学卒業を控えた金城哲夫は「特撮の神様」円谷英二に師事し、シナリオライターの活動を開始します。
たちまち才能を発揮し、円谷プロの文芸部長として『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の企画を作り上げ、大ヒットさせます。
しかし、1969(昭和44)年、金城は突然、円谷プロを退社し、沖縄に帰郷してしまいます。
突然の沖縄への帰郷!
金城は「沖縄の本土復帰を現地で見届けたい」とも、「社運を賭けた番組が失敗した責任を取るため」とも、「番組政策を巡る軋轢のため」とも、「妻と三人の子供のため」とも、「沖縄を題材にした小説を書くため」とも言い、結局、真意は誰にもわからないままの帰郷となりました。
琉球放送のラジオ・キャスターとして人気を博す!
金城は琉球放送のラジオ・キャスターとなり、大人気を博します。
地元劇団に沖縄芝居の脚本を精力的に執筆するなど、沖縄の生活は順風満帆に見えました。
しかし、次第に何かが軋み始めていく!
1971(昭和46)年、円谷プロは『帰ってきたウルトラマン』でウルトラシリーズを再開させます。
かつて、沖縄にある米軍基地内に密かに保管していた毒ガスが漏れて大問題になったことがあり、
金城はその毒ガス問題を題材に脚本を1本執筆しました。
脚本の内容は「旧日本軍が廃棄した毒ガスを吐く怪獣」が登場する作品で、当時の沖縄の問題を投影していました。
米軍による毒ガス問題とは!
1969(昭和44)年、米軍知花基地で毒ガス漏れ事件を起こします。
この時、米軍基地内に1万3000tものマスタード、CB、VXガスが貯蔵されていることが発覚しました。
沖縄全県をあげた抗議活動が起き、毒ガス兵器は米国オレゴン州の弾薬庫に移動することに。
しかし、オレゴン州議会や、輸送ルート周辺の住民が猛反発し、結局はグアム島近くのジョンストン島に移されました。
金城が「毒ガス怪獣」の脚本を書いたのは、ようやく毒ガスの撤去が始まった時期でした。
移動作業は50日もかかり、沿道の住民は避難生活を余儀なくされ、毒ガスを積んだ最後のトレーラーが沖縄を離れる際、琉球政府のスタッフは塩をまいて見送ったといいます。
「毒ガス怪獣」の脚本はかつての金城の作品の大らかさはなく、毒ガスへの怒りをストレートに表した暗いものでした。
円谷プロはその後も準レギュラーとして執筆させようとしましたが、金城はもう二度と「ウルトラマン」を書くことはありませんでした。
一方、沖縄芝居の執筆でも問題が生じていた!
幼少時から家族の間でも標準語を使い、15歳で沖縄を離れた金城は、「うちなーぐち」の台詞が書けなくなっていました。
台詞は地元の俳優に「翻訳」させましたが、それではどうしても沖縄芝居のニュアンスが出ません。
金城が学んだ玉川学園は戦前から自由教育を提唱し、当時は本土でも最先端の学校でした。
金城はそこで少年期に多大な影響を受けます。
「ウルトラ」の近未来のイメージも、沖縄でラジオ・キャスターとして人気を得たのも、その環境で身につけた感覚によるものだったのでしょう。
しかしそれは、沖縄古来の土着的な感覚とは異なっていました。
金城は沖縄の歴史・文化を猛勉強しましたが、自らの感覚を天衣無縫に書く天才型作家だった金城には、研究を基に書くことは困難でした。
意気込んで書けば書くほど「沖縄的ではない」と評されます。
金城はアイデンティティーの危機に陥り、酒に溺れていきました。
1972(昭和47)年5月、沖縄は本土に復帰!
本土復帰に伴い、10月に航空自衛隊那覇基地が開設されました。
しかし、沖縄戦に関して米軍よりも日本軍を憎むように仕向けられてしまった沖縄県民の自衛隊に対する拒絶反応は大変なものでした。
そんな中、金城は自衛隊のヘリに体験搭乗し、ラジオでその感想を語りました。
「沖縄にアメリカ軍基地が集中し過ぎている。」
「本土復帰したのだから当然減らすべきである。」
「自衛隊が肩代わりすることでアメリカ軍基地を減らすことになるのならそれもいいのではないか?」
素直な感想だったのでしょう。しかしこれには抗議が殺到しました。
「自衛隊賛美だ!」
「住民感情を逆なでする行為!」
「許せない!」
琉球放送の存続をも問われかねないと言われるほどの事態となり、金城は体調を崩し、琉球放送の仕事を全て降板することになりました。
肝臓疾患を患っていながら、酒量はますます増えていきます。
沖縄海洋博のメインセレモニー制作、演出の仕事が持ち込まれる!
そんな金城に、沖縄海洋博のメインセレモニー制作、演出の仕事が持ち込まれます。
金城はこれこそ「沖縄と本土の懸け橋」になる仕事だと、意欲的に取り組みました。
しかし、海洋博に対する沖縄県民の目は冷ややかで、開催後には自然破壊と不況が残るだけだという声が大勢を占め、金城は準備の過程で地元の漁師に「ヤマトの回し者」と罵られる有り様でした。
金城の演出は好評!
演出は好評でしたが、海洋博の入場者数は予想の7割にとどまり、心配された海洋博不況が現実となり、企業倒産が相次ぎました。
金城の酒は末期的症状となります。
37歳の非業の死!
海洋博閉幕からわずか1か月後の1976(昭和51年)2月22日、金城哲夫は泥酔して自宅の2階から転落し、4日後に息を引き取りました。
帰郷から7年、37歳の非業の死でした。
参考文献 小林よしのり『沖縄論』
『沖縄論』のブックカバーを取ると…
本書は400ページほどある超大作。
出版当時、賛否を巻き起こした本書ですが、まさかカバーを取るとこんなに綺麗な沖縄が写っているとは気づきませんでした。
歴史に翻弄され続けている沖縄ですが、この景色を愛せずにはいられません。


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